ごきげんのツボ

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義母と娘の見えない糸  No.378

義母98歳の冬、長女が突然亡くなった。夫の姉のことだ。

わたしは、昨年、公民館のエンディングノートの講座を受けて、漠然としていた老後への不安があからさまになってきているところだった。「かぁちゃんが長生きすると俺の方が早く逝くこともあるから、そうなると色々大変ばい。」そんな話をしたばかりだった。

そして「ほら、やっぱりこんなこともあるやろ。」と義姉が亡くなったことを淡々と伝えてきた。悲しむ前に、今度は自分の母にそのことをどうやって伝えるべきか、不器用な夫はとても悩んでいた。

義姉は料理が上手で明るかったが、わたしから見たら少々わがままでこどもっぽい印象の人だった。手がかからない夫や次女は小うるさい義母とは距離を置いていたが、自分の感情をぶつけてくる長女とは気が合うのか、合わないのか、ケンカばかりしながらくっついていた。手がかかるほどかわいい、嫁のわたしから見てもそんな親子関係だった。

「体が大きくてサイズが会う服がないからねぇ。」と洋裁の得意な義母がよく手作りで、普段着を作ってあげていたのを思い出す。親子の距離が近かった分、娘が先に突然亡くなったことを聞いた反応が怖かったが、事実を伝えないわけにはいかなかった。

普段から静かな夫は、更に淡々と「〇〇子のことで話があるんやけど・・」と言ったら、目を見開いて「死んだ?」と聞いてきたそうだ。悲しい表情を浮かべるでもなく「ホッとした・・・」と安堵の溜息をもらしたらしい。

持病もあり、福岡の市営団地でひとりで暮らす娘のことを以前から案じていたのだろう。最近、知り合いに「あの子を残して死ぬのが心残りよ。」とも言っていたそうだ。

義姉が亡くなる日の前日の夕方、不思議なことが起こった。

その日は日曜日、義母のいる施設で働いている夫から電話があった。「なんか苦しみよるけん、〇〇先生の携帯教えて!」と言ってきた。同級生の〇〇先生は休みの日でも電話いいよ。」と言ってくれていて、おかげで義母の一時的は発作は半日で治まったが今までにない苦しみ方だったらしい。「発作の時間と〇〇子が亡くなった時間が一緒やろ、やっぱりあのふたりは繋がっとたんばい。ぜったいそうばい。」と言った。

リアル思考の夫がずっと目に見えない糸のことをつぶやいていた。そんなことがあるのかだろうか。義姉がもし最期にひとつだけ願う時間があったなら、それは義母の愛情にちがいない、というのはわたしも否定できない。

きっと母と子、見えない糸は確実に存在するのだろう。

「わたしが苦しんだ時、〇〇子は亡くなったのよね。」時間の感覚も間違ってはいなかった。

義母はあまり笑ったり、泣いたりしないが、子を先に失くした98歳の心はどこをさまよっているのかと思うと切なさがこみ上げてくる。

 

葬儀から数日後、義母の箪笥から義姉の服の型紙が大量に出てきた。型紙と残された大量の義姉の服、どっちも処分するのは嫁のわたしだ。

しんみりしている暇はどこにもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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