ごきげんのツボ

ほぼごきげんに過ごすためブログ

最近ハマったもの🏓 No.406

最近、登山に次いでハマっているのは「ピックルボール」。はじめて3ヶ月半ほどだが、結構な頻度でコートに顔を出している。まだまだ初心者中の初心者だが、それなりにゲームを楽しめるので、すっかり虜になっているのだ。真ん中に当たった時の「カーン、カーン」という音が、なんとも気持ちがいい。

始めたのが夏場だったこともあり、エアコンのない体育館で汗を流していた。体中の水分と毒素が噴き出している感じがして、あのヌルヌルが快感なのだ。エアコン「あり」と「なし」の体育館を選べと言われたら、迷わず「なし」を選ぶ変態だ。(こういう人が知らず知らずのうちに熱中症になり、周りに迷惑をかけるのだろう笑)

ピックルボールは「誰でもできる」という触れ込みだが、ラケット競技の経験がある人は習得が早い気がする。ただ逆に、テニスや卓球のクセが抜けきらないのも良くないらしい。素直に一から知識を積み上げた人が、一番上達するのかもしれない。

 

すべてが中途半端だった人生を恐る恐る振り返ってみると、ラケット競技をやっていたのは「団地妻」時代だ。当時、近所のテニスコートで友達とキャーキャー言いながら走り回っていた。とにかく元気な30代前半だった。遊んでいるうちに「上手くなりたい」欲が出てコーチに習い始め、一時期は朝から晩までテニス漬けの日々を送っていた時期もあった。しかし、仲間が転勤したり仕事が忙しくなったりして興味が薄れ、結局3年ほどでやめてしまった。「あの時続けていれば……」と悔やまれる。

 

その後もダンスやジムなど何かしら運動は続けていたが、シニアとしての自覚がある今、まさかこんな激しいピックルボールの世界に飛び込むとは思ってもみなかった。「もう走ったりジャンプしたりすることはない」と思っていたけれど、自分より若い人(ほとんど、いや全員かも?)と一緒に汗を流すスポーツはやっぱり楽しい。相手がどう思っているかはわからないが、そこは気にするまい。

 

ボールを打つ瞬間、テニスをやっていた頃と同じ爽快感がよみがえってくる。海外では80代でも毎日バンバン打ち合っているそうだ。できることなら、私もそこを勝手に目指したい。

 

昔、ハマっていたことや好きだったこと、一度やめたことをもう一度はじめてみるのは、本当にいいことだと思う。途中で投げ出してしまった趣味や習い事に再チャレンジするのも、何十年か生きてきた経験がプラスされて、以前より深みを増して取り組めるのではないかな。人との関わり方もしかり。適度な距離感で趣味を共有できるって貴重だと思う。コテコテのコミュニティは苦手だけど、老後に向けて趣味も整えておこう。ピックルは引き出しにしまっていた思い出を引っ張りだして再稼働させてるイメージ。そんな風に都合よく解釈しながら、500円玉を握りしめて、またコートへ通うのだ。

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義実家じまい【嫁の怒り編】 No.405

 

今年2月に亡くなった義母が施設に入った3年前から断捨離に火が付いた。義母の家は100年を超えた古民家でそれはそれは義母の手によって大事に愛でられた家だった。

とは言え、義母が施設に入ってからは大量の荷物をこのままにしておくわけにはいかず、重い腰を上げなければならなかったのだ。使命のようなものを感じていて、とにかく私がやらねば、誰がやるんだと鼻息荒く、断捨離、断捨離とスイッチが入っていったのだ。

 

優柔不断な夫をよそに、差しさわりのないものからドンドン処分することにしようと誓う。一方、小さなわが家も同じ頃、断捨離を始めていたが、こちらは常に主導権を握る私の思う通りにどんどん進んでいった。自身の決断なので何も迷うことはなかった。それはそれは気分爽快だった。断捨離楽しーと手放すたびに気持ちがクリアになっていって、体に滞った濁りが流れていく感じがした。義母を思い出し、夫に気をつかいながら義実家を捨てまくるのとは訳がちがう。

さてこの義実家、どこからやるか。長男だった義父の兄弟姉妹は8人。それに祖父母までいたので大家族だった。さすがにそのころの衣類などはなかったが茶碗類はパッと見るだけでも、いくつかある食器棚やボードにあふれるほど残っていた。

 

まず台所の食器棚①を開く。もちろんそこに詰められた食器類は何度も見たことがあるし、使ったこともあるが、義母の管理下にあった時は、さほど気にもしていなかった。いったん私がどうにかせねばとなると、はじめて震えるほどおそろしい数だということを理解しはじめたのだ。

 

普段使い用、お客さん用、お正月用など食器棚が各部屋にあるのだから、たまったものではない。ここにはさすがにないだろう寝室の戸棚をそっと開くと、そこにも何十年間分の日の目を見ない食器やグラス類、贈答品が箱ごとぎっしりパズルのように詰まっていた。それらにはひとつひとつに誰からいつもらったものかが書いてあった。几帳面な義母らしい。箱は経年劣化でくすみ、新品なのにタオルやシーツにシミがついたようなものもあった。

とにかく食器棚ごとに全部広げていく。茶碗類が堰を切ったようにあふれ出してきた。大げさではなく、この日を待っていたかのようにどんどん自分の足で歩いて出て来ているような気がした。クラクラと目眩がして、めげそうになったが、私しかいないと思いなおし、捨てるもの、譲渡するもの、使うもの(これはほとんどない。)に分類していった。譲渡するものは水洗いもした。

夫は食器には興味がないらしく、母の思い出に浸ることもなさそうで安心した。名古屋に住む姉からは「全部処分していい。」と言われていたので遠慮する人もいなくなった。

「さぁ、やるぞー!」空元気をだしながら、まず、譲渡出来るところがあるか探してみた。

するといい情報がアンテナにひっかかってきた。地元に「ものの譲渡会」というところがあった。ボランティアの方々に手により、使えるものを必要な人たちのところへ届ける橋渡しをしているところだ。何でも疑いがちな私は、怪しくはないかと直接店へ伺ってみると、そこには小ぎれいにした聡明な感じの女性が2名いた。譲渡の懸け橋となり、寄付もそこで募り、そのお金は施設に寄付したり、被災地支援を行っている団体へ送られるということだった。「どうぞ食器を持ってきてください。」とあか抜けた服を着こなした意識高い系っぽい女性が手続きを教えてくれた。ここだったら罪悪感も薄れると、次の日に夫のワゴン車に積めるだけ積んで運びこんだ。係の方はその食器を見るなり「旅館かなんかされてたんですか?」とポカーンとされた。あまりの多さに「次は置く場所が空いたら、こちらから連絡しますね。」とやんわり次の搬入を延期された。まぁとりあえずこれで食器棚ふたつ分ぐらいは片付いた。この会のSNSではいまだに「今回お嫁に行きました。」ともらわれていく茶碗の様子がアップされる。「あっ!これうちの湯呑だ!!和カフェするんだって。」「うちの皿だ!」と写真が上がってくるたびになんとなく胸をなでおろす。

 

次はフリマで売る作戦だ。メルカリが得意な私は売れそうな食器はどんどん出品した。高価そうなものでも中古の食器はたいした値段はつかないが、使ってくれる人がいるだけでありがたいものだ。夫はこの方法は一番気に入っているようだ。やるのは私なんだが。こうやって義母のコレクションは各地に散らばっていったのだ。

 

『茶碗類はひとつの家に集まっているから美しいのよ。』と自分のコレクションには自信を持っていた。嫁はこの言葉も全無視して食器断捨離に没頭する。

 

同じような境遇の人たちが「片付けすると具合いが悪くなった。」「物の多さに途方に暮れて何をどうしたらいいかわからない。」とか言っているがまさに同じ状態が続いていった。

 

今では無心で淡々とやることに慣れたが、始めた頃は茶碗に憑いた義母の念が襲ってくるのではないいかと本当に思っていた。当時97歳だった義母からは「メモ一枚捨ててはならん。」と言われていたのに、完璧にスルーしているので、恨まれてもしょうがない。ドラマのようにセンチメンタルにはいかないのだ。

そもそもこれは嫁の仕事なのか?嫁という言葉は昭和で終わったんじゃないのか? 名古屋に住む義姉も大きな義実家をたたんだ経験があったり、SNSで断捨離を検索すると同じように実家片付けで大変な思いをしている人が多くいる。『昭和』でこういうことは終わりにしよう。どういうつもりでこんなにため込んでいたのか、欲しいものを買って、そのまま処分せずにいるとどんどん増えるのは当たり前と言えば、当たり前なんだが、もう少し、後の人の気持ちを考えてほしかったなと、ほこりにまみれながら、怒りさえ感じてくる。お義母さん、ごめん、愚痴しか出てきません。

 

100kmの距離を運転してくる身としては、月一回が精一杯。2泊、3泊のほとんどを家の片付けに充てた。その間、義母の面会や、同じ市内にある自分の実家にも顔を出さねばならず、ほんとに大変だった。食事は極力作りませんと宣言し、朝は夫が作り、夜は近くの居酒屋などで過ごした。街中なので食べることは心配しなくてよかった。小さなご褒美を見つけながら自分流に断捨離を進めていったのだ。

 

同じ体験がある友人が「やりはじめたら終わる。」という言葉をメッセージしてくれた。この言葉がずっと折れそうな気持ちを支えてくれている。

 

長い長い断捨離ライフは3年たった今もまだ終わらない。

 

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足の治療院のこと No.404

わたしの足を治してくれた先生は理学療法士で独立して、北九州市で足の治療院を経営されている。

わたしの入院などもあり、昨年の秋からはご無沙汰しているが、下書きが残ってたのでちょっと振り返ってみることにしてみよう。

 

足首の靭帯あたりを痛めてからというもの、一年半ほど普通に痛みなく歩ける日がなかった。その頃私の興味の1、2を争うのはもっぱら足の情報だ。

ネットで調べまくって、やっとみつけた足に特化した治療院に通っていた。この先生が超絶真面目で誠実、当の本人より一生懸命わたしの足を心配してくれる。検索力とホームページから漂ってくる『信頼』を見極めた自分を褒めてあげたい。

友人が『ちょっと前はFacebook占い、今はインスタ占いが出来るよね』と茶化す。またホンモノかそうでないかも見分ける能力を発揮してしまった。文章や写真からは端々に人間性が出ると思うのだ。ホームページからそんなメッセージを受け取りながらすがる思いで、その治療院のドアをたたいた。

 

色々調べてもらったら中度の外反母趾、扁平足からの足底筋膜炎だったが半年通ったころから随分楽に歩けるようになった。おかげさまで傷は癒えたし、スイスイ歩けるようにもなった。

外反母趾にも変化が見られるようになった。

治療はみっちり1時間、マッサージ、テーピング、指のトレーニング、歩き方チェック。先生手作りのインソールも威力を発揮した。

 

ここで学んだことは『焦ってはいけない』コツコツ続けていたらある時フッと羽が生えたように軽くなることがあるのだ。気がつけば『あっ、痛くない⁈』と感じた瞬間は天にも昇る気持ちだった。

 

おかげさまで今ではそこそこの山だったら登れるようになった。完全復活して休日はバンバン登っている。現在やってることは軽い指の体操とセルフマッサージぐらいかな。

 

でも喉元過ぎれば…で油断は禁物。そろそろ先生のところにお礼参りに行ってメンテしなきゃ!と思っている。ここがあったら何があっても怖くないというくらい信頼しています。

 

その名も『楽足院』

https://share.google/erNRLOFCBjXUJ5U0Z

案件ではありません(笑)そんなもの来ません。

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注)治療の結果については個人の感想です。

 

 

 

 

 

 

 

外国から来た人々 No.403

わたしは現在、町の国際交流の仕事にパートタイムで携わっている。外国語講座の運営や、子どもから大人まで、語学や海外文化に関心を持つ人たちのための企画が主な業務だ。 これまでは町内や近隣の日本人向けの仕事が中心だったが、最近ではこの小さな町でも外国人の姿が増え、事務所にも多国籍の方々がちらほらと立ち寄るようになってきた。

 

正直に言えば、観光地に外国人があふれ、都会では日本人が肩身の狭い思いをしているといったネットニュースを目にするたび、やりきれない気持ちになっていた。「政権は何を考えているんだ」と、十分な準備もなく受け入れを拡大しているように見える体制に、独り腹を立てることもあった。職員でありながら、心から「ニコニコ国際交流」という気分になれない自分に、どこか罪悪感を抱きながら仕事をしていた。

 

ところが、特に大きな事件があったわけではないが、4月に入ってから少しずつ心境に変化が訪れた。

事務所の片隅では、少人数ながら外国人のための日本語教室を開いている。 現在通っているのは、日本在住10年以上で英会話を教えながら3人の子を育てるお母さん。いつも手作りのアメリカンクッキーやシナモンロールを焼いてきてくれる。 初級クラスには、日本人の夫を持つ中国人の主婦がいる。日本語はまだたどたどしいが、わたしと同年代の彼女は、先日ついに日本の運転免許を取得した。一生懸命に勉強し、夫の心配をよそに教習に励む姿を見ていたが、正直「合格は難しいのでは」と思っていた。それが数回目の挑戦で見事パスしたのだから、日本語教師の先生も驚いていた。 最近加わったケニア出身の女性とナイジェリア出身の男性は、30~40代のロボットエンジニアだ。穏やかなまなざしで「5月には二人目のボーイが生まれる」と話してくれた。もっと日本語を上達させて仕事を頑張りたい、言葉ができないと意思疎通が難しい、できることなら日本にずっと住みたい……。もう一人はベトナムから来た技能実習生の青年だ。とても静かな性格だが、資格取得という目標に向け、厳しい授業にも懸命についてきている。日本語の先生は資格の勉強となるととたんにモードが変わる本気の先生だ。家族と離れ、異国の地で一人、自立した生活を送っている。家族の話をする時は目を細めて笑顔を見せる。

 

今日は年度替わりの会費を納める日だった。こちらが忙しさで忘れていたのだが、彼らは入ってくるなり財布を握りしめ、「お金払います……」と、たどたどしい日本語で私の方へ向かってきた。その本気のまなざしに打たれ、私も思わず背筋を伸ばし、丁寧な言葉で応対した。書き慣れない彼らの名前を、一文字ずつ丁寧に領収書に綴る。

 

少なくとも、ここに来る人たちは皆、謙虚で真面目だ。 これまで私は、波のように押し寄せる「外国人」という塊を歪んだ目で見ていたのかもしれない。しかし一人ひとりと向き合えば、それぞれに深い事情や思いがあることに気づく。 少なくとも自分ファーストでない立ち振る舞いなのだ。たぶん想像以上にここに来るのに気を使っているように見える。「どんな気持ちで町工場で働いているのだろう? 冷たくされていないだろうか」「お母さん、学校からの手紙は理解できている? 日本人のママ友はいる?」 そんな疑問が自然と湧いてくる。 「日本は公平な機会をくれるから感謝している」と、アフリカ出身のエンジニアは言った。隣国へ行っただけで仕事でも差別を受けることもあるのだという。これほど紳士で知的な彼が、である。

事務仕事をする私の横で、BGMのように聞こえてくる彼らの日本語が、今はとても心地よい。 モヤモヤするニュースは絶えないけれど、少なくともここに通う人たちとは心が通じ、仲良くなれそうな気がしている。むしろ、こうした人たちとはずっと仲間でいたいと思うのだ。 ベテランの日本語教師も、意欲的な生徒たちに満足げだ。志の高いやさしい彼らのようにわたしもなかなか上達しない英語にもう一度挑戦し、いつか海外へ飛び出してみたくなってきた。

(写真は沖縄行き笑)

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義母が置いていったもの No.402

義母と最後に会ったのは今年の元旦だった。わたしは秋から忙しく、とんとご無沙汰していたのだ。元旦の昼頃、施設に着いたら、タイミング悪く、ちょうどバスで初詣に出かけようとしているところだった。ドアがまだ空いていたので「お義母さん、いってらっしゃい。」と言うと、義母はバスを降りる素振りを見せ、手をわたしの方に向かってパタパタとさせた。スタッフさんが「ダメダメ」と言うとドアが閉まり、バスはスーッとわたしの前を通りすぎ、地元の巨大門松で有名な宝満神社へと向かって行った。

3月の101歳の誕生日を目の前にして、弱々しくなってきた義母は初詣なんて行きたくなかったかも知れない。元々、行楽に行ったり、友達同士でのワイワイするタイプではなかった。施設に入ったら団体行動が多く、もちろん断ることもできるが、年寄りながらに気を使うことも多かったかもしれない。

今年の正月は寒かった。「あの初詣で見事にみんな風邪ひいた。」と夫が言っていた。年々脂肪も筋肉もこそげ落ちてしまった義母には寒さがひびいたらしく、入院レベルの風邪となってしまった。それから約1ヶ月の入院生活。面会は基本家族だけ15分のみとコロナ以降なかなか厳しいルールに替わっている。

しかもこの時期予約制になっていた。またすぐいつものように元気になって帰ってくると思って、わたしは一度も行かなかった、というか15分のための100㌔の距離はなかなかきつく、正直その間、義母を思い出すことも減っていった。わたしもそれなりに歳を取ってたくさんのことをこなせなくなってきている。

 

やっと退院の連絡が来た。迎えに行った夫は今までと様子が違うと言う。食欲はまったくなく、栄養ゼリーのようなものを少し食べる程度で元気もないらしい。

「そろそろかもね。」と夫に告げた。夫も正直もう無理して生かせても幸せじゃないし、自然にまかせようということになった。元々、尊厳死協会に入会していた義母からも言われていたことだ。義母の最期をあわてず迎え、また葬儀のことなどを不謹慎ながらもぼんやりとシュミレーションしていた。

2月4日立春 お昼の食事前にみんなが集まるリビングで息を引き取ったと夫から連絡があった。

かかりつけ医の同級生H君が施設に来て死亡と診断された。何十年も義母がお世話になった温和な先生だ。幼い頃は義母が営むピアノ教室にも来ていて、診察でも常に長びく話を根気強く聞いてくれたにちがいない。義母が大好きな先生だった。

家族葬で身近な親戚だけで、そっと見送ろうと思ったが、東京、愛知の孫や甥、姪っ子たちもたくさん来てくれた。本家だったので幼い頃、何度となく、親に連れられお世話になったと言っていた。成長した面子が集まって義母も大満足だったことだろう。そしてお通夜から告別式は滞りなく行われた。

えっ?と思ったのは夫はなにもかも棺桶に入れようとしたことだ。大量の写真、義母が編んだセーター、ボランティアの賞状類などをギチギチに詰め込んだ。何でも取っておきたがる人なのに、この時は今までにない思い切りのよさに不思議な違和感を覚えた。そしていつも傍に置いていたしゃべる犬のぬいぐるみ、こうたくんだけはわたしが寂しくないように義母の足元に置いた。

 

義姉はあいさつの時「母はいつも人の心配ばかりしてる人でした。みんながんばってるからもう何も心配しなくていいよ。」と言って火葬場へと向かった。

焼却が終わった義母の骨は小さく細く、ポロポロになってしまった。いつも全力で生きてきた義母がすべてをこの世で使いきったように見えた。

自宅へ戻った夜、義姉と三人でお茶を飲んで居た時「どんな気持ち?」と聞くと「骨になったけんね。」と夫は心なしかスッキリした感じでつぶやいた。

葬儀から1週間が過ぎ、わたしも北九州の自宅へ戻り、実家に住む夫と電話で話していると、『何か歌おうか??』『どうしたの?』どこかで聞いた声。棺桶に入れたぬいぐるみの音源が、主を亡くしてさびしくひとりで話していた。機械の部分は棺桶に入れられず抜いていたのだ。

「お義母さんが乗り移ってるみたい。怖いけん捨てて。」と非情なことを言う嫁に、「かわいそうやん。」と夫は捨てたくなさそうだった。勝手にしゃべる箱は怖かったが、「かわいいね~。」とやさしく話しかけていた義母の笑顔が忘れられないのかもしれない。大往生を見送って、すがすがしい気持ちと親子じゃないとわからない複雑な気持ちが交差しているのだろう。

このおしゃべりな箱を捨ててと言うのは、もう少し先にしようと思った。

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書くことは生きること No.401

『書くことは生きること、書き上がった作品だけでなく、書くプロセスこそが書く悦び』

 

先日の文章講座の添削が郵便で戻ってきた。30分ほどで書いた、ボロボロの作文だ。

原稿用紙に赤ペンでの添削が新鮮だった。達筆過ぎて解読が大変だったが、少しだけペン入れしてもらっただけで文章がイキイキとしてくる。さすが作家先生!

あと、一文が長過ぎるとも書いてあった。これは頭の中で整理が出来ないまま、書きたいことを連ねているうちに果てしなく、いつも長い文章になるのだ。自分のことを客観的に書くのはなかなか難しい。

 

 

 

まだ書くことは生きることとは到底言えないが、細々ながらも続いているのは、そこに癒しや悟りや自分の頭の中が見えてくるからなのかな。

 

最後に書いてあった『心に10代の少女を置いて』という言葉に心踊ってしまった。

 

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小指から老化⁈ No.400

『いたーーーっ!た、た、たーっ!』たまらん、痛い、痛いと小指を抑えて朝、5時からその辺りを飛び回った。

 

今日は町内環境美化の日で開始の8時までには間があるし、もうひと眠りしよう〜、とりあえず雨戸だけは開けとくかと寝ぼけまなこで勢いよくスライドさせたとたん、雨戸に小指を思い切り挟んでしまった。

 

(しかも雨戸を締め出したのはここ1週間ほど。この経緯は別の日に書くとして。)

 

保冷剤をタオルで巻いて、小指にあてているとそのまま、また眠ってしまった。 

数時間経った今でもまだ薄っすら内出血していて痛い。

 

そう言えば、この季節は外から帰ってきたら足だけシャワーして、その後は裸足で無印の綿の草履スリッパを履いているけど、最近やたら小指を椅子の角や、放置しているダンベルに小指をぶつけることが増えた。そこまで大事故には至ってないが、なかなか痛い。これはどいうこことなのかな??

 

空間認識が実際と違っていて、一歩遅れるか、もう少し上げないとつまづくか…ということなのだろうけど、それにしても回数が増えた気がする。

 

老化と言えばこの間、「写メとかレンチンとか今は言わないですよねー」と職場の若い女子たちと話していて、『うん、言わない、言わない』と同調していた矢先に、『それ写メ送ってね…あれ?わたし言ってるねー泣』と思い切り口ばしってしまった。普段、何を話してるかも自信がなくなってきた。絶対言ってない認識だったのに。

 

新しい言葉を無理して使うのはイタイらしいのでそこはあきらめるとして、怪我に直結する手脚の小指問題は気のせいとすませてはいけないよね。

 

小さな指が教えてくれる老化。ありがとう(泣)

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関係ないけど蚊に刺されながら朝ごはん

 

 

 

 

 

 

 

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